【40】



パリ 美作家のダイニングルーム


櫻の仕事もようやく一段落がついてきた


「おはよう。」


「おはよう。」


「ママ〜、おはよう〜」


「お前今日は大学に行くんだろ?」

あきらが読んでいた新聞から顔だけ上げて聞いている


「うん。行ける時に行っとかないとね。
 このままだと留年しちゃう。」


「そっか。
 俺も今日は一日大学に居るから終わったら迎えに行くよ。」


「え〜〜いいよ!一人で大丈夫だよ。」


「何だよ、俺が迎えに行ったら何か都合の悪い事でもあるのか?」


「・・・無いけど・・・でも、ヤダ!」


「じゃあ、いいだろ。
 迎えに行くから、ちゃんと待ってろよ!」


「だから、いいって言ってるでしょ!
 私の話、聞いてる?」


「聞いてるよ。だったら迎えを嫌がる理由を言えよ。」


「・・・だって・・・あきらが来たら、大学のみんながうるさいんだもん!
 前にあきらが校門の前で待ってた事があったでしょ?
 その時だってみんな、あの人ダレ?って大騒ぎになったんだから!
 兄だって言ったら紹介してって言われて断るの大変だったんだからね。」



「まぁ、俺の美しさは万国共通だからな。」

私の抗議の声もあっさり無視してサラッと背中が痒くなるような事を言っている・・


「ふ〜ん、自分で言っててバカバカしくならない?」


「ならないよ。真実だから。」


「はい、はい。だから、大学には来ないでね。」


「行くよ。」


「ヤダ!」


「お前も本当に頑固だよな!じゃぁ、近くのカフェで待ってるよ。
 それならいいだろう?」


「・・・それだったら、いいけど・・」

近くのカフェでと言う言葉に渋々OKするとあきらは勝ち誇ったような表情で

「決まりだな。ホラ、さっさとメシ食わないと遅刻するぞ。」


「分かったわよ!」
「雛も早く食べちゃいなさい。」
「あきらも新聞ばっかり読んでないで早くしないと遅刻するわよ。」


「分かってるよ。」

あきらは手にしていた新聞を折りたたみながら苦笑いしている



慌ただしい毎朝の光景・・・・・
この数年間、ずっと続いている彼と私と雛の三人だけが知っている風景・・・・


「それじゃぁ、私、先に出るわね。」


「ああ、気をつけてな。」


「うん、行ってきます。」


明るい声で櫻がダイニングから出て行ったが、すぐに玄関の方で大声を出している



『ひな〜、早くしなさい〜』


『ママ、先に行くわよ〜』


『は〜い、ちょっと待って〜』


俺はカフェオレの入ったカップを口に運び、騒々しい二人の声を聞きながら、
ダイニングのドアが開くのを待っていた
ほどなくしてドアが開き、雛が顔だけを出す


「あきら〜、行ってきます〜」


「ああ、気をつけてな。」


「うん。じゃぁね〜〜」


また玄関から声が聞こえてくる・・・


『ひな〜〜』


「ママが呼んでるぞ。」


「は〜い!!」


一度に俺と櫻の両方に返事をして雛が元気よく駆け出して行った


まったく騒がしい・・・毎朝の日課・・・・

俺達はいつまでこの朝を続けていられるのだろうか?
この頃、ふとそんな事を考えてしまう。
この生活が永遠に続けばいいと思ってしまう・・・・事は罪なのだろうか?
だとしたら俺は喜んでその罰を受けよう・・・


だからもう少しだけ・・・こんな朝が続く事を・・・神にでも祈ろうか・・



【41】

櫻を大学まで迎えに行ったその日の夜、三人で夕食を食べ終えた時、突然雛が言い始めた言葉が
俺と櫻の間にあるどうしても埋めることの出来ない溝を浮き彫りにする




「ねぇ〜、あきら〜お願いがあるの♪」


雛は俺の事をあきらと呼び捨てにしている
その事を櫻がいくら注意しても治らない…


俺は別にかまわないのだが…


我が家のかわいい悪魔は完璧な笑顔で俺を見ている
たった5歳のその笑顔に俺は弱い…


「何か欲しい物でもあるのか?」


「違うよ、あのね、雛もママみたいにあきらにお迎えに来て欲しいの。」


「なんだそんな事か、いいよ。いつでもお迎え行くよ。」


「本当に?!ヤッタ〜!」


「ダ〜メ!雛、あきらお兄ちゃまは忙しいのよ。
 だから雛のお迎えに行ってる時間は無いのよ。」



「え〜ヤダ〜、今、あきらはいいって言ったよ。」


「ダメ!それにあきらじゃないでしょ、あきらお兄ちゃまでしょ。
 いい加減にしないさい。」


「や〜だッ!雛もあきらにお迎えに来てもらうの!」

こうなったら雛は誰にも止められない・・
自分の願いが聞き入れられるまで言い続けるだろう・・

「櫻、もういいよ。そんなにキツく言わなくてもいいだろ。
 それに俺がいいって言ってんだから。
 でも、雛はどうして俺に迎えに来て欲しいんだ?」


「う〜んとね、あきらがお迎えに来てくれるとお友達がね
 み〜んな雛ちゃんのパパってかっこいいねって言ってくれるの。
 だから雛、あきらにお迎えに来て欲しいの。」



『ブッ!』櫻が飲んでいたワインを吹き出した…


「ちょ、ちょっと雛、何言ってるのよ…」


雛の言葉を聞いて櫻がさらに怒っている
ったく・・・櫻は無視して


「そうか、そうか。雛はママと違って素直だな。
 じゃぁ、さっそく明日、迎えに行くよ。」

雛の頭を撫でながら話すと雛は満面の笑みを浮かべている



「もう、それどういう意味よ!それに、あきらはパパじゃないのよ。
 雛、幼稚園でお友達にあきらの事、パパなんて言ってないわよね?」


「う〜ん、分かんない…」


「ちょっと、雛!いつも言ってるでしょ。ウソ付いちゃダメって。
 どうしてそんなウソつくの?」


「だって……」


「櫻、もういいだろう、そんなにきつく言わなくてもいいよ。」


「ダメよ!雛、あきらはパパじゃないのよ、分かってるでしょ?」


俺だって分かってるよ…
だけどそんなに何度も否定するなよ…


その言葉を聞いた雛の瞳に涙が浮かんでいる

「じゃぁ、雛のパパはどこに居るの?
 みんなにはパパがいるのに、どうして雛には居ないの?
 雛もパパが欲しいの!」


今度は櫻の瞳が潤み始めた・・・・


いつかはこんな風に聞かれる時が来るとは予測していたが、
あまりにも突然の事でどう答えていいのか分からなかった…


「…雛……ごめんね。」
「…それはママにも分からないの。」


雛の言葉を聞いた櫻はどう答えればいいのか分からないようだ


雛が自分の父親について知りたいと思うのは当たり前の事だが、
櫻自身にも分からない父親についてどう説明すればいいのだろうか?



【42】

黙ってしまった櫻の代わりに俺が口を開いた

「雛、パパの事知りたいのか?」


「知りたいよ。」


「そうか・・でもな、ママにも分からないんだ。」

俯いたままだった雛が顔をあげて俺を見ている

「どうして?」

「ママはね、雛が生まれる前に病気になっちゃったんだ。
 その時、ママはいろんな事忘れちゃったんだ。」


「忘れちゃったの?ママ、病気なの?」


「そうだよ、今はもう大丈夫だけど。忘れちゃった事まだ思い出せてないんだ。」
「だから、ママが思い出すまでもう少し待っててあげてくれないかな?」


「う〜ん・・分かった・・
 雛、ママが思い出すまで待ってる・・」
「でもね、雛もパパが欲しいの。」


「そっか。じゃぁ、ママが本当のパパの事を思い出すまで俺が臨時のパパじゃダメか?」


「あきら、何言ってるの?」

ずっと黙って俺と雛の会話を聞いていた櫻が険しい顔で俺を見ている


「本当!いいの?雛、ずっとあきらがパパだったらいいなぁ〜って思ってたの。
 だから、うれしい〜!」


雛は無邪気に喜んでいるが櫻は違う


「雛、ダメよ!あきらはパパじゃないんだから。」


「え〜っ、ヤダ!」


「櫻、いいよ。俺がいいって言ってんだから。」


「あきら、甘やかさないで。」

櫻の怒りは収まりそうにないので俺は強引に話を終わらせる
このまま話していても平行線のままなのだから・・


「雛、明日も幼稚園だろ?今日はもう寝ておいで。
 ちゃんと明日、お迎えに行くからな。」


「うん、ありがとう、パパ!!」


「もう、雛、いい加減にしなさい。」


「パパ、ママ、おやすみなさい〜」

雛は櫻の怒りなど全く気にしている様子はなく
無邪気に手を振ってダイニングから出て行った


【43】


雛が自分の部屋に戻ると櫻の怒りは当然、俺に向けられる・・


「あきら、どういうつもりなの?」


「どういうつもりって、何が?」


「雛にパパって呼んでもいいって。」


「いいじゃん、別に。雛も寂しいんだよ。」


「だからって・・あの子きっと幼稚園でもどこでもあきらの事を
 私のパパはって言って歩くわよ。」
「あなたは本当の父親じゃないのに、誤解されたら困るでしょ。」

≪だから・・何回も言うなよ・・・パパじゃないって・・≫
≪分かってるよそんな事ぐらい・・・≫


「構わないよ。実際、父親みたいなもんなんだから。
 今さら何言ってんだよ。雛が産まれた時だって俺が立ち会ったんだぞ。」


「そうだけど・・た、立ち会ってくれって頼んだわけじゃないでしょ!」


櫻が雛を出産した時、俺は病院まで付き添っていた
病院の看護婦さん達は俺を父親だと勝手に勘違いして、
強引に分娩室まで付き添わせ、産まれたばかりの雛を俺に手渡した


「雛を一番最初に抱いたのは俺だろ。」


「だから、そんな事を言ってるんじゃないでしょ。」
「美作あきらに隠し子がいるっ言われたらどうするの?」


「そんなの、言いたい奴には言わせておけばいいよ。」


「そういう問題じゃないでしょ。」


「じゃぁどういう問題なんだ?」
「なぁ、櫻、やっぱり雛には父親が必要なんだよ。」


「分かってるわよ。分かってるけど、思い出せないのよ…」


「だからだよ、お前が思い出すまでの間だけ俺が雛の父親役を引き受けるって言ってんだよ。」


「もし、私がこのまま一生何も思い出さなかったら?」


「その時は、時期を見て俺が雛に父親の事を話すよ。」


「そんな…もし、雛が会いたいって言ったらどうするの?
 向こうは急に雛が現れたら迷惑なだけかもしれないじゃない?
 そんな事になったら雛が傷つくだけでしょ。」


「大丈夫だよ。あいつは絶対に雛の事を迷惑に思ったりしないよ。
 そんな事、俺が絶対にさせないから心配しなくていい。」


俺の言葉を聞いた櫻は一度ゆっくりと目を閉じ深く息をつくと
悲しそうな表情のままで俺を見つめている

「あきらは私の事なんでも知ってるのよね…
 なのに私は自分の事を何も知らない…」


「あんまり気にするな。俺は好きでやってるんだから。」
「俺が何のためにお前と一緒にいるか分かってるだろう?
 俺はお前を悲しませる為に一緒にいるんじゃないんだ、
 だからもうそんな顔しないでくれ。頼むから。」


「うん、分かってる。ありがとう・・・
 一つだけ聞いてもいい?さっき言った事って本当?」


「なにが?」


「雛の父親の事、その人は本当に雛の事を迷惑だって思ったりしないの?
 私が勝手に雛を産んだ事、怒ったりしないの?」


「ああ、大丈夫だよ。むしろ喜ぶと思うよ。
 あんなかわいい娘を産んでくれたお前に感謝するよ。」


「ありがとう、あきら。」


「どういたしまして。」

そう言って微笑むとやっと櫻の顔にも笑顔が戻った
さっき言った事は本当だ
司が雛の事を迷惑に思うなんてありえない・・
もし・・司が雛の事を知ったら・・どんな行動に出るだろうか?



雛の父親の事はずっと気になっている・・
この6年間、記憶の事は思い出そうとすればするほど
どうして?という疑問ばかりが湧いてきて
何も思い出せない苛立ちと不安で前に進めなくなる

思い出したのに思い出せない
考えすぎると日常が立ち行かなくなる
だからなるべく自然に任せてと思い大学に通い仕事も始めた
だけど今度は忙しい日常に忙殺されて
一番大切な物を置き忘れたままになる・・
どちらに傾いてもペースが掴めない
堂々巡りが続いている・・・


あきらの事は信じている・・・
彼が雛の事は大丈夫だと言っているのだから本当にそうなのだろう・・
だけど・・将来、雛が父親の事で傷つくことだけは何としても避けたい。


【44】


パリ 大学のキャンパス

今日の講義を全て終え、あきらと待ち合わせをしているカフェに向おうと構内を歩いていると


『・・・さくら〜・・!』


聞きなれた声に気付いて振り返ると歩美さんがこちらに駆け寄ってきた



「歩美さん。」

彼女は日本人留学生の橘歩美、私と同じカメラを専攻している。
歳は私より一つ上。日本の大学で経済を勉強した後、この大学へ再び通い始めた変わり者だ。


「櫻、久しぶり〜」


「久しぶり。」


「本当、もう櫻が来ないからつまんなくて!」


「ごめんね!でも、仕事の方も落ち着いてきたからこれからは
 ちゃんと来れるよ。いい加減真面目に通わなきゃ進級出来ないもの。」


「本当?よかった〜!!
 ねぇ、今から時間ある?」


「う〜ん、あきらと待ち合わせしてるけど。」

最近、彼は毎日のように私と雛を交代で迎えに来ている。
大丈夫なのだろうか・・?


「えっ!?あきらさん来てるの?」


「う、うん・・」

≪ヤバイ・・・つい本当の事言っちゃったけど、彼女もあきらのファンの一人だったんだ。≫


「ね〜ぇ〜、櫻ちゃ〜ん…」


「気持ち悪い言い方しないでよぉ!」
「ハイ、ハイ。分かってますよ。会いたいんでしょ。
 いいですよ、ついて来ても。でも、何か予定があったんじゃないの?」


「いいの、いいの!
 あきらさんに会えるんだったらデートの一つや二つどうって事ないわよ。」


「なにソレ・・・?」

「いいから、いいから!
 さぁ、行くよ!」

そう言うと自分だけさっさと歩いて行ってしまう


「ちょ、ちょっと、待ってよ!もう・・!


あきらが待っているカフェまで二人で歩いて行く


「ねぇ櫻、仕事うまく行ってる?」


「うん、大分落ち着いてきた。」


「そう、よかったね。」


「ありがとう。で、歩美さんの用件って何?」


「あっ、それはカフェについたら話すよ。」


「そう。」


そんな会話をしているとカフェが見えてきた
あきらは窓際の席に座り、通りを眺めながらゆっくりとタバコをふかしている

≪めずらしいあきらがタバコを吸っている・・・・≫

≪彼がタバコを吸う事は知っているが私や雛の前では絶対にタバコを手に取ることは
なかった、だから私は彼がタバコを吸っている姿をあまり見た事は無い。≫

彼の横顔が見える。普段、私には見せない表情・・・・何を考えているのだろう?
憂いを帯びたその横顔をただ純粋にキレイだと思った


あきらがこちらに気付いて軽く手を挙げてタバコの火を消した












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