「静さん・・・?」






その美しい人が私の元へと運んできてくれたのは
切なくて哀しい過去だった





30年前、日本に置いてきたはずの想いが蘇ってくる




現在57歳・・人生の半分が過ぎ
私には愛する夫と子供が四人
そして孫が三人いる





私の名前は天草つくし
30年前、私は司を捨て天草清之介の手を取った










               

−−雨障(あまつつみ)−−

オーストラリア・ゴールドコースト 南半球に位置する此処は日本とは季節が間逆で12月の今は夏真っ盛り 街にはクリスマスイルミネーションが溢れかえっているけど 日本のようなしっとりとした恋人達のイベントといった雰囲気ではなく 半そで姿のサンタクロースやサーフィンしているサンタクロースなどが 見られたりして何処か陽気な雰囲気が漂っている この地で寿司店を任された夫とともに四人の子供を育て頑張ってきた いつもと変わらない午後だった お店のランチタイムが終わり 夜の営業に向けて一旦、お店の暖簾を下ろす準備をしていた時に なんの前触れも無しに静さんが訪ねてきた 「つくしちゃん?」 「はい・・お久しぶりです。」 昔と変わらない優しい微笑を浮かべた静さんは 「本当に久しぶりね。元気だった?」 「はい、元気にしてました、静さんは?」 「ありがとう。私も元気にしてたわ。」 そこまで言って静さんは少し考えるような仕草を見せた 「今日はどうされたんですか?観光ですか?」 「いいえ、ある人に頼まれてつくしちゃんに会いに来たのよ。」 「私にですか?」 「ええ、少し時間貰えるかしら?」 「えっ・・あっ、はい・・主人に聞いてきますのでちょっと待っててもらえますか?」 「行って来いよ。」 店の奥にいたはずの主人だった 彼は静さんに軽く挨拶をすると私に向き直り優しく微笑んだ・・ 「店は大丈夫だから行ってこいよ。」 「・・分かった。じゃあ行ってきます。」 静さんが誰の依頼でどんな用件で私の元へと訪れたのかは分からないけれど 主人に背中を押され静さんと共に店を出て自宅へと戻った 海岸沿いに立つオーストラリアでも平均的な一軒家が現在の住まい 20年前、この海に沈む夕陽に一目惚れした彼がちょうど売りに出ていたこの家を買った この地に家を買うということ・・ この地に家族で根を下ろし なにがあっても此処で頑張るんだという彼の決意の現れだった 子供たちも成長しそれぞれが独立していった現在は夫婦だけの二人暮らしだけれど 20年前と変わらない夕陽がここにはある・・ 「綺麗な海ね。」 「ええ、この景色が好きなんです。」 リビングの窓を開け放つと海からの心地よい風がカーテンを揺らす ソファーに向き合うように腰を下ろし しばらく海を眺めている静さんと共に波の音を聞いていた やがて静さんは意を決したように静かに口を開いた 「つくしちゃん?」 「はい。」 「司が亡くなったのは知ってるわよね?」 「はい。」 半年前、新聞で見た懐かしい名前は彼の訃報を伝えたものだった・・・ 「はい・・こちらの新聞にも載りましたから。」 「そう・・今日は、私がここに来たのは椿さんからの個人的な依頼なの。」 「椿お姉さん・・・?」 「ええ、だからこれは道明寺家とは関係ないのよ。」 そう言って静さんから手渡された手紙には微かに見覚えのある懐かしい文字が並んでいた その手紙には何一つ私を責める事なく私と私の家族への気遣いの言葉が記されていた 私は30年前、多くの人を裏切り全てを捨てて天草清之介の手を取った 身も心も焦がす恋を捨てて心穏やかに愛せる人の手を取ったことを後悔はしていない 穏やかな人生・・私が欲しくて欲しくてたまらなかった人生 30年前の私は道明寺司の愛人という立場だった 自ら望んだわけじゃないけどどうしても彼から離れられなかったのも事実 4年のNY生活を終え日本に戻った彼と忙しくてデートもままならない日々だったけど 未来に希望を持てる毎日だった 今すぐじゃなくても数年先には毎日彼と一緒に居られる未来が存在していると信じて頑張っていた だけどそんな未来に綻びが生じ始めたのが25歳の時 突然降って湧いた司と滋さんの政略結婚話しに 私の未来がそして仲間達の未来が形を変えた 当時、私は司と滋さんは美作さんと付き合っていた 互いに別れるなんて考えられなかった だけど大河原グループの社運を賭けた一大プロジェクトがたった一人の社員の不祥事の為に 頓挫してしまいそれに伴いグループ全体が一気に崩壊の危機に陥った大河原グループでは グループ企業を救うために道明寺グループとの業務提携を模索していた そして道明寺、大河原、双方の家にとって子供同士の結婚という結びつきが 例え愛情の無い政略結婚であろうとも必要な結びつきで双方の利害は一致していた 滋さんは抵抗していたが美作商事では大河原グループを救うことは出来ない 結婚する本人の意思など関係なく進められていく結婚 戸惑い、迷い、悩むなかでそれぞれが決断を迫られていた 私は司と別れるつもりでいた 親友である滋さんと結婚する司と別れるしかないと思っていたから だけど司達が下した決断は全く違う物だった 司が下した決断とは 滋さんが下した決断とは 美作さんが決意した事とは・・ 政略結婚は受け入れるけど契約結婚で 業務提携がひと段落し大河原グループの建て直しが終了した時点で離婚する そして滋さんと美作さんは別れないという事だった 後は私が決断するだけ・・ 私はこの時、どんなに辛くても彼と別れるべきだった 後になってその事だけを唯一、後悔している あの時、別れていればあんなにも司をそして滋さんを美作さんを傷つけずに済んだかもしれないのに・・ だけど司の言葉に私の心が揺れた なんとしてでも滋さんとは5年で離婚する だからそれまで待ってて欲しい 迷いを捨てきれたわけじゃない 100%その言葉を信じていたわけじゃない 私はその不確かな言葉に縋っただけ だからすぐに綻びが生じ始めた 私が欲しかった未来はこんな未来じゃない・・・ 金さんとは司がNYへ旅立つ前にお寿司をご馳走になった時以来 時たま会ってはお寿司をご馳走になったり学校の事、仕事の事 友人との事、司との事などいろいろと話しを聞いてくれる友人だった 司と滋さんの結婚の時も・・・ 私達の関係の事も・・ 全て知った上で私を励ましてくれていた 司と滋さんの結婚生活は共に志を共にする同志のような間柄で 特に滋さんは大河原グループ建て直しのため寝る間を惜しんで懸命に働いていた そんな滋さんを支えていたのは美作さんで 私はなにも出来なかった なにも後ろ盾のない私には司を助ける事なんて出来なくて ただただ流されるように司が所有するマンションに引越し ただただ彼からの連絡を待つ毎日の繰り返しだった 業務提携をしたことによって今まで以上に忙しくなってしまった司とは 数ヶ月に1度顔を合わせればいいところで連絡だって1ヶ月に1度電話が掛かってくるかどうか 連絡が来たとしても 顔を合わせたとしても 滋さんという妻がいる司と外で会うわけにはいかず 彼が部屋に来るのをただひたすら待つだけの毎日が少しずつ私の心を蝕み始めていた その事に自分自身が気付いたときにはもう後戻り出来ないところまで来ていた ただ彼を待つ・・ 誰も訪ねてこない部屋で一人 気が狂いそうな時間を過ごしていた私は自分の体調の変化に気付いたのは 彼と滋さんが結婚して2年が経った頃だった 気をつけていたはずだったのに 薬局で購入した妊娠判定薬の結果は陽性 すでに3ヶ月目に入っていた 司に妊娠したと伝えた時に彼から返ってきた言葉 "認知するから"の一言だけ 嬉しくないわけじゃなくて ただタイミングが悪かっただけ 彼が悪いわけじゃない 誰も悪くはない 彼が妊娠した私を気にかけてくれているのは分かっていたし 子供が出来て喜んでくれているのも分かっていたのに・・ だけど私の心には彼の気遣いを受け入れるだけの余裕が無かった 何処の病院へ行けと指定されても 私に対する全ての事を道明寺家の都合なんだとうがった見かたしか出来なくて 少しずつ大きくなっていくお腹と比例して私の中で大きくなっていく司への不信感 そして母親になるという不安で完全に正常な精神状態ではなかった 思うように連絡の取れない司に苛立ちだけを募らせ 先の見えない未来に絶望だけが募り動けなくなっていた そんな中で定期健診に出かけた帰り道に見つけた公園で 遊んでいた親子連れを見たとき 私の中の何かが壊れた音を聞いた 私の目に映る家族の姿 父親が居て母親が居て子供が居る そんな当たり前の形が存在しない未来 このままこの子を出産しても この子は愛人の子供で道明寺司の隠し子 一生付き纏う産まれる前からのハンディ 私はこの子にそんな物を背負わせてしまっている 堂々と手を繋ぎ街中を歩く事の出来ない両親 休みの日には父親に手を引かれ公園で遊ぶ事も出来ない子供 私は自分自身だけではなくこの子にもそんな未来しか用意してあげる事が出来ない そんな考えに支配されてどうしようも無くなっていた私を助けてくれたのが金さんだった 彼の勤めていたお寿司屋さんがゴールドコーストに支店を出す事が決まり そのお店を任されることになっていた金さんは 司の子供がいる事を承知でオーストラリアに一緒に来て欲しいと言ってくれた 突然の申し出に戸惑う私に彼は 自分が父親になるから 何があってもつくしと子供は守るからと 三人で家族になろうと言ってくれた だけど司の子供が居るのに金さんの手を取るなんて出来ないと思っていた いくら此処から逃げ出したくても彼を巻き込むなんて出来ないと思っていた 金さんにプロポーズされたのはちょうど妊娠7ヶ月目に入ったばかりの頃で 私は妊娠が発覚してから司とは一度も顔を合わせていなかった それどころか電話も一度掛かってきたきり 司は東京とNYを行ったり来たりする忙しい日々を過ごしている事は分かっていた だけど電話を掛けてくるぐらいの暇はあるはず それなのに一度も掛かってこない・・ もう私の事などどうでもいいのかもしれない・・ 本当は子供の事が迷惑なのかもしれない・・ 私の中に芽生えた司への不信感が日に日に大きくなっていく 司を信じている 彼はそんな男じゃない 分かっている 私の思い過ごしで 今は本当に忙しいだけで 彼だって私と子供の事は気にかけてくれているはず 相反する二人の私がせめぎあっている 司への不信感を取り除きたくて何度も彼と連絡を取ろうとしたけれど出来なかった 声が聞きたかっただけなのに・・・ そんな願いも叶わなかった 金さんはプロポーズされて以来、忙しい仕事の合間を縫って毎日会いに来てくれていた いつの間にか金さんを心待ちにしている私・・ いけない事だって分かってた だけど段々と私の中で大きくなる金さんという存在 私が愛しているのは司のはずなのに・・ 子供の父親は司なのに・・ 八方塞の心が金さんを求めている 私の心を決める決定的な出来事が起こったのはそんな時だった 突然、私の住む部屋に司の秘書さんが訪れた 秘書さんは司から頼まれ子供用品を持って来てくれた 司はちゃんと私と子供の事を考えてくれている そう感じて嬉しかった 部屋に運び込まれたのはベビーベッド・・ それに大量の子供服 その小さな洋服を一枚一枚広げながら帰ったばかりの秘書さんとの会話を思い出していた 秘書さんは司からの伝言だと言って伝えてくれた言葉 そのどれもが私と子供を労わる言葉だった・・ 無性に司と話しがしたかった だから思い切って秘書さんに司のスケジュールを確認してみた 秘書さんから返ってきた答えは司は現在NYに居るという事だけ 詳しいスケジュールはこちらでは把握していないと教えてくれた 司が今東京に居るのかNYに居るのかそれが分かっただけでも嬉しかったのに・・ どうしても司に電話したくて時差を考えNYが朝なら仕事に出かける前に繋がると思って 夜中までテレビを見ながら過ごしていたのに・・・ テレビなんて見なければよかった・・ 何気なくつけていたテレビでは深夜のニュースが始まり その中で今日、東京のメープルホテルで行われたある政治家のパーティに司が出席している様子が映し出されていた・・ 日本にいたんだ・・ NYに居ると思ってたのに・・ ハハハ・・私なにやってんだろう・・? 乾いた笑いが部屋に響く・・ そこまでは覚えてるんだけど・・ その後の事はよく覚えていない・・ 気がついたときには東の空が明るくなり始めていた 今夜の便でパリに帰るという静さんを空港まで見送り自宅へと戻ってきた 夜の営業は既に始まっている時間だからお店に行かないといけないんだけど・・ テラスに置かれているソファーに座ったまま動けない そっと自分の膝の上に置いてあったスケッチブックを開いてみる 椿お姉さんからの手紙と共に渡されたスケッチブックとマリッジリング 30年ぶりに私の元へと戻ってきたこのリングは司と滋さんが結婚する時に2組作られた物で 一組は美作さんと滋さんの元へ もう一組は司と私の元へと届けられていた 2年間、私の指にはめれていたこのリングを私は日本を出る時、あの部屋に置いてきていた そのリングを司はずっと持っていてくれた・・ 司は私のリングと自分のリングを一本のチェーンに通し死ぬまで身に着けていたらしい・・ "椿さんね・・このリングを司のお棺に一緒に入れてあげようと思ってたんだけど・・ これには司の想いが詰まっているようで出来なかったんですって・・ だからこれは是非つくしちゃんに持っていて欲しいって言っていたわ・・" 司の想い・・・ 私が見失ってしまった彼の想いが30年という時間を経て私の元へと届けられた そしてこのスケッチブックは彼の死後、書斎のデスクの鍵の掛かっていた引き出しに しまわれていた物で中に描かれているのは全て女性の後姿・・・ "そこに描かれている女性は全部つくしちゃんだと思うの・・" 一枚、一枚ページをめくってゆく スケッチブックの中の私は一体どんな表情をしているのだろうか・・・? 笑ってる・・? 泣いてるの・・? それとも怒ってる・・? ねぇ、司・・ あなたに写る私はどんな表情をしていたの・・? 最後のページの一番下に書かれていた言葉 『Einmal mehr zu Ihrer Ursache』         〜もう一度、君の元へ〜 涙が止まらなかった・・ あたりはもうすっかり暗くなっていて寄せては返す波の音だけが私を包み込んでくれている 今日は顔を見せない月が私の涙を隠してくれている 30年間ずっと鉛を飲み込んだように重かった心 金さんと結婚し幸せだと感じれば感じるほど置き去りにしてきた恋が悲鳴をあげているように感じていた 自ら置き去りにした恋を想って泣くのは卑怯だと思ってきた だけど静さんから伝えられた椿お姉さんの言葉が胸に突き刺さる ずっと体調が優れず医師の診断を受けた司は自分が癌で余命半年程だと告げられ それまで自分が手がけていた仕事を部下に振り分け自らの後継者として椿お姉さんの子供を指名し一線から退いた 病院には入らず一切の治療を拒否しあのお屋敷で息を引き取った 最後を看取ったのは家族と親しい友人達 特に椿お姉さんは司がお屋敷での療養に入った直後からずっと側に居て看病を続けていた 司はずっと側に居てくれた椿お姉さんにだけ本当の事を話していたらしい 現在でも司と私の間に子供がいる事を知っているのは道明寺家では椿お姉さんだけ 司は私が妊娠した事を誰にも・・ 当時、妻という立場にあった滋さんにも話してはいなかった そして私が司の元を去った事も誰にも伝えていなかった 滋さんや椿お姉さんが私が司と別れ金さんと結婚していた事を知ったのは 司と滋さんが離婚した後 それまで椿お姉さんも滋さんも美作さんも司は私と一緒にいると思い込んでいたらしい どうして誰にも私と別れたことを言わなかったのか・・・? それはきっと美作さんと滋さんの事を考えたからだと思う そして子供の事を言わなかったのもきっと同じ理由・・ "司ね・・椿さんにこう言ってたらしいの・・・" "子供が出来たって聞いた時は嬉しかった・・だけど一瞬、今は時期が悪いって思ったんだって・・ 子供が出来たことを100%喜んでいなかったから・・だからつくしは俺に愛想をつかせて出て行ったんだと思う" "つくしが居なくなって本当に後悔した・・どうしてもっとちゃんとつくしと向き合わなかったんだろうって・・ 仕事が忙しいのを言い訳につくしを一人にしたんだろうって・・" "後になって後悔したってもう遅いのにな・・" どちらか一方が悪いわけじゃない 誰も被害者じゃない・・ 誰も加害者じゃない・・ 100%の幸せなんて有り得ないんだと だから人は悩み、苦しみながらも生きていけるんだと思う 人の一生を歴史だと言うのなら 歴史とは時間の流れの中に存在するもの だから時間の流れの一部分だけを切り取り判断できるものではない 明日からも私はここで金さんと共に生きていく だけど今日だけは過去に思いを馳せる事を許して欲しい            点が線になり              線が道になる            今日が昨日になり              明日が今日になる            そしてやがて未来が過去に変わる         私の未来が過去に変わるのはもう少し先の事・・・                 〜 Fin 〜 【ひとりごと】 くだらないお話しに最後までお付き合いいただきありがとうございました。               2006/08/05 KiraKira
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